東京都の西のほう、青梅の山のなかにパン屋さんがあった。小麦粉の味が主役で、ほんのり薪で焚いた火の風合いが残るような、街の舌にはもしかしたら味気ないけど、素材の薫るなかなかに贅沢な味わいのパン。
朝の3時頃に火をおこして窯をあたためる。 午後3時頃まで続くというその余熱で焼かれるパンの素朴さに魅せられる。
もとは山の管理をしている会社で、 山を手入れするときに出る木や枝を使い、パンを焼くことにしたのだそうだ。
オーストリアから石窯職人が来て石窯が造られた。 パン焼き職人がきて伝統を伝授した。 オープンの日には舞踊団がやってきて、民族衣装で歌と踊りがあったという。
訪れる都度耳にする - 「この近くに住んでるんだけど、こういう処があるなんて知らなかった」 - そういう感じのパン屋さん。
2011-10-28
2011-10-26
パン屋さん ~ 志津屋
京都で地元の人に人気というパン屋さんを教えてもらった。作り手と材料が生き生きして感じるパン。
以下、先日いただいた情報。
志津屋 - 人気のパン屋さんらしいのだが、ちょっと遠い...。
ちなみにウェブ・サイトでの販売あり。
以下、先日いただいた情報。
画像: 志津屋ウェブサイトより
志津屋 - 人気のパン屋さんらしいのだが、ちょっと遠い...。
ちなみにウェブ・サイトでの販売あり。
2011-10-20
Lytro "Light Field Camera" 2012年発売
Lytroの "Light Field Camera" がいよいよ発売との事。
概要が発表された今年2011年 6月に「安価で提供予定」という事だったので、安く見積もっても7~10万円程からのスタートだろうと思っていたが、発売価格は16GBモデル (約750枚撮影可) で $499.00、8GBモデル (約350枚撮影可) で $399.00 というから、この突飛とも言うべき技術への代金としてはずいぶんと安く感じる。
概要が発表された今年2011年 6月に「安価で提供予定」という事だったので、安く見積もっても7~10万円程からのスタートだろうと思っていたが、発売価格は16GBモデル (約750枚撮影可) で $499.00、8GBモデル (約350枚撮影可) で $399.00 というから、この突飛とも言うべき技術への代金としてはずいぶんと安く感じる。
画像: Lytroウェブサイトより
2011-10-04
新宿ニコン・サロン ~「ごくろうさま:ハワイの日系二世」展
新宿ニコン・サロンにて、10月18日~10月31日の期間で開催。
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2011/10_shinjyuku.htm#03
移民というのは、どの国から来た人も、どの国へ入って行った人も、人並みならぬ苦労があるのだろうと思う。 より良い生活を求めて新たな地に踏み入るも、現地の人々とは対等な立場という事はなく、「労働力」として入植するケースが殆どだろう。
アメリカ本土へ渡った人々は、馬小屋や貨車に住みながら砂漠のように痩せた土地を耕し、太平洋戦争当時は強制収容所に入れられた。
ハワイでも同様に農地を耕すが、その頭上をゼロ戦が越え、真珠湾攻撃を経験する。 その後、虐げられた待遇も多々あったことだろうが、今では州議会での日系人の影響力は決して小さくない。
アメリカに渡った人々以上に苦労したのが南米のボリビアやパラグアイにに渡った人々だろう。 当時の外務省が推した、明治の「元年移民」と呼ばれる流れであり、その宣伝を信じて誰もが楽園を目指したのだが、着いた先では塩分のにじみ出る小さな土地を分け与えられ、ほんの5年前ですら、水道や電気も満足に通っていない生活を強いられていた。
ハワイに住む知人から、「ハワイの移民の事が知りたかったらビショップ・ミュージアムにいくといいよ」 - と教えてもらい、数年前の滞在の折に「チャンス到来」と機を狙ったのだが、とうとう足を運べなかった。
アメリカ本土、ハワイへ渡った日系人だが、 一世は働いて富を得て、そしてアメリカ人になろうとした世代だと感じ、同時にその魂は日本人以外の何者でもなかったとも感じる。 二世は、そのあり方と、アメリカで生まれ育ったという事実と戦争という世情の中で、おそらく最も「アメリカ人であるべきか、日本人であるべきか」という「アイデンティティ」を自身に問い、また問われた世代ではないかと思う。
数年前にハワイでお世話になった日系人は、三世と四世だった。
しっかりとアメリカに根を下ろした日系三世と、アメリカも日本も心の中に同居する四世。 こうして異国に馴染んでゆく人々の強さを思うと共に、そうした姿には、一世・二世の開拓の苦労をもそこに見る気がしてくる。
http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2011/10_shinjyuku.htm#03
移民というのは、どの国から来た人も、どの国へ入って行った人も、人並みならぬ苦労があるのだろうと思う。 より良い生活を求めて新たな地に踏み入るも、現地の人々とは対等な立場という事はなく、「労働力」として入植するケースが殆どだろう。
アメリカ本土へ渡った人々は、馬小屋や貨車に住みながら砂漠のように痩せた土地を耕し、太平洋戦争当時は強制収容所に入れられた。
ハワイでも同様に農地を耕すが、その頭上をゼロ戦が越え、真珠湾攻撃を経験する。 その後、虐げられた待遇も多々あったことだろうが、今では州議会での日系人の影響力は決して小さくない。
アメリカに渡った人々以上に苦労したのが南米のボリビアやパラグアイにに渡った人々だろう。 当時の外務省が推した、明治の「元年移民」と呼ばれる流れであり、その宣伝を信じて誰もが楽園を目指したのだが、着いた先では塩分のにじみ出る小さな土地を分け与えられ、ほんの5年前ですら、水道や電気も満足に通っていない生活を強いられていた。
ハワイに住む知人から、「ハワイの移民の事が知りたかったらビショップ・ミュージアムにいくといいよ」 - と教えてもらい、数年前の滞在の折に「チャンス到来」と機を狙ったのだが、とうとう足を運べなかった。
アメリカ本土、ハワイへ渡った日系人だが、 一世は働いて富を得て、そしてアメリカ人になろうとした世代だと感じ、同時にその魂は日本人以外の何者でもなかったとも感じる。 二世は、そのあり方と、アメリカで生まれ育ったという事実と戦争という世情の中で、おそらく最も「アメリカ人であるべきか、日本人であるべきか」という「アイデンティティ」を自身に問い、また問われた世代ではないかと思う。
数年前にハワイでお世話になった日系人は、三世と四世だった。
しっかりとアメリカに根を下ろした日系三世と、アメリカも日本も心の中に同居する四世。 こうして異国に馴染んでゆく人々の強さを思うと共に、そうした姿には、一世・二世の開拓の苦労をもそこに見る気がしてくる。
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